種苗交換会

交換会の歴史

沿革

 明治11年(1878年)9月、県勧業課長樋田魯一が主催して、秋田市の浄願寺を会場に第1回の勧業会議が開かれた。石川理紀之助翁はその会議の推進役となり第2回目は幹事に就任している。この会議に出席したのは、農事に堪能な、民間から選ばれた45人の勧業係員で、その際、由利郡平沢の佐藤九十郎から「種子交換の見込書」が提議され、これを樋田会頭が採用、歴史的な種苗交換会の発端となった。

 同15年からは、勧業会議(勧業談会・現在の談話会の前身)と種子交換会を合体して名実ともに「秋田県種苗交換会」と呼称された。

 この間、明治12年、県は地域指導に当たった四老農、大館の岩沢太治兵衛、秋田の長谷川謙造、雄勝の高橋正作、湯沢の糸井茂助を勧業御用係りに任命。翌13年には「夫れ道を学ぶに友なかるべからず」の趣意で始まる歴観農話連が設立され、石川理紀之助翁が催主(会頭)となっている。

 明治19・20年は、県主催による開催があやぶまれ、また22年も休会となるところを、歴観農話連が後援し、同連の会員が各々私費を投じて交換会を存続させている。こうした結果、種苗交換会は日清・日露・太平洋戦争中といえども、一度も休会することなく開催されている。

 この継続の精神こそ、秋田の「農の心と技」を、話し合い・ふれあい・助けあいの三心によって広めようとする熱意に他ならない。

 思いおこしてみても、数里先の隣村、農家同士の交流もない閉鎖社会というのが、明治初期の県内農村の実情であった。これをお互い公開し、話しあい、見せあうことを強く進めたのが石川理紀之助翁と森川源三郎翁で、歴観農話連の同志もこれを支援したのだった。

 明治33年(1900年)、県農会が法定設立され、種苗交換会の主催者は全面的に、県から県農会へ移管されることになった。交換会会頭は小西文之進、小山巳熊と変わり、同41年から齋藤宇一郎翁に引きつがれた。談話会員からの要望を入れて、地方開催に踏み切ったのは、明治42年からのことである。

 これが現在まで忠実に順を逐って開催される端緒となったが、このあと会頭は池田亀治、佐藤維一郎に次いで片野重脩となり、新穀感謝祭がとり行われている。

 時代は下って、戦後農業団体の再編とその育成に尽力した武田謙三、民主化された県内農協の新生・再建への礎を築いた長谷山行毅の下で、農業(事)功労者表彰、交換会史の編纂がなされた。農業団体の再編に尽力した木内主計、土肥大四郎、「あきたこまち」の名声確立と広域JA合併に尽力した佐藤秀一、合併後のJA改革に努めた小松正一、菅原稔、集落営農組織の設立に尽力した澁川喜一、JAグループ秋田の組織・財務基盤強化と営農・経済事業改革に尽力した木村一男等は、農業・農村が大きな転換期を迎えるなか、時代に即応した交換会の継続に意を注いだ。

 こうして主催者は、県及び農話連から明治34年に県農会、昭和19年に県農業会、昭和23年に県生産農協連、同29年からは県農協中央会と移り、開催地も秋田市~北秋田~平鹿~山本~仙北~鹿角~南秋田~雄勝~由利とほぼ10年ごとに開催されている。

 種苗交換会では、明治13年からの審査を加えて農産物の展示・交換が今日に及んでいるが、現在出品物は水稲・畑作物及び工芸作物・果樹・野菜・花き・農林園芸加工品・畜産品及び飼料・林産品の区分で出品、選賞を行っている。

 また、主要行事である談話会は県内農家等の実践者で構成され、その体験や意見発表を通し、本県農業の振興や農家生活の向上、農協運動の発展に大きく寄与してきた。

 例年、新穀感謝農民祭とともに開幕し、農業功労者の表彰や農産物の審査結果の公表、さらに談話会や交換会関係者の物故者追悼会が営まれ、最終日の褒賞授与式によって閉幕している。(文中 敬称略)

三大先覚者

 秋田県種苗交換会の発足・発展・継承などに功績のあった先覚者の中から、特に功績のあった三人についてご紹介します。

参考文献:「種苗交換会記録」JA秋田中央会刊より

石川理紀之助翁

 秋田の二宮翁と称せられ、その生涯を農村の更正、農家の救済、農業の振興のために捧げつくした高名は全国に知られている。
 弘化2年2月25日秋田市金足小泉の農家、奈良周喜治氏三男として生まれ21歳の時、南秋田郡昭和町豊川山田の石川長十郎氏の養子となる。廃藩の後、秋田県勧業課の官吏に出任、33歳で種苗交換会を創設し今日の全県的一大行事の礎をきずいた。
 明治16年、職を辞し居村救済に着手。29年から耕地適産調を開始し、7カ年の歳月を費やして調書731冊に及ぶ。
 「寝て居て人を起こすことなかれ」は翁の金言であるが、翁は和歌の天才でもあり又書をよくし多くの著書をあらわした。招かれてはるばる九州51カ所を講演行脚されたが、晩年、老躯をひっさげて仙北郡強首の九升田、平鹿郡角間川木内の両部落復興の指導に当たった。
 大正4年9月8日、71年の生涯を終えた。

森川源三郎翁

 石川翁と同時代のすぐれた老農で、明治5年、県の勧業係に奉職し石川翁を知るに及び爾来石川翁をたすけて黙々たる実績をあげ、石川翁とは互いに師礼をつくして終生交友をつづけた。したがって、石川翁の活動の名声のかげに森川翁の功績ありというも過言でなく種苗交換会創生時代における翁の功績は大きい。
 弘化2年2月15日秋田市新屋表町秋田藩士又五郎氏の長男に生まれたが明治維新に際し百姓を志し「一年の計は草を植えるにあり、百年の計は徳を立つるにあり」との信念で、自ら三栽と号して一生を農道の確立と農村開発につくした。
 翁の活動や農民の指導感化の影響は石川翁の事業と渾一の状態であるが、翁独自の功績も少なくない。58歳の時、石川翁や数名の同志と共に九州の農民指導に赴き、石川翁らと農会組織運動にも努力し、河辺郡農会長、秋田県農会長にも選ばれたことがある。
 61歳上北手古野に草庵を結び、山居生活に入り植林事業に努めた。勤倹力行汗するのみでなく温情味があり、一面ゆたかな芸術的教養にもめぐまれた先人である。
 大正15年6月7日没。時に82歳。

斎藤宇一郎翁

 政治家として又、農政の権威者たることあまりにも有名である。
 慶応2年5月18日由利郡仁賀保町平沢に茂助翁長男として生まれる。
 明治26年明治学院に教鞭をとり、29年に農商務省の役人生活もしている。32年、厳父の逝去により帰郷、34歳から61歳まで寧日なく地方開発農政の刷新に努められ、代議士当選8回、23年間議政壇上にあって高邁なる識見を吐露して農業国本を主張し、その実現に努力した。
 明治41年秋田県農会副会長にあげられ、交換会会頭として16年間会務を運営されたほか、秋田県教育会長の要職に就き教育地方自治方面にも多大な貢献をされた。
 公正な人格、至誠堅忍なる熱情は、行うところ良果を収め、為すところ的中し、その生前成就しなかったことも逐次実現している。農業の神と称されるのも、むべなる哉と云わなければならぬ。
 大正15年5月10日没。時に61歳。

過去の交換会

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種苗交換会開催記録

歴代農業功労者表彰名簿

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歴代農業功労者表彰名簿記録